Samayaでは賛助会員を募集してい
ます。入会申込書をダウンロードし、
印刷して必要事項をご記入の上、
郵送、もしくは、FAXしてください。

入会規約はこちら (PDF: 87KB)

【PDF: 94KB】

水面の月 水面の月

第十三回 -“愛”について-

清風学園
専務理事・校長
平岡 宏一

 今回は仏教における“愛”について考えてみたい。我々が一般に使っている“愛”という言葉は、仏教的には、「慈しみ」と「貪着」という二種類の全く相反する感情に分類できる。慈しみとは、相手に楽を与えたいという思いやりの心である。『仏教語大辞典』には、慈しみ〔Maitra〕は友人〔Mitra〕という単語から生まれ、真実の友情という意味を持ち、上下の関係の無い言葉とされている。これに対し、貪着とは、むさぼり求めることや執着、即ち「とらわれる心」をさす。現在のギュメ密教学堂の管長のターシー・ツェリン師は、慈しみと貪着の違いについて、「相手が自分の意志に反する行為を行った時、心から相手のことを心配し、何とか出来ないかと考え、さらにその相手への思いやりが増してゆくのが慈しみであり、意のままにならぬ相手に対して怒りの感情が涌いてくる場合は貪着である。」とおっしゃっていた。
 一見、同じように見える愛という感情がこのように大きく食い違ってしまう理由について考えてみよう。貪着の場合は、対象の良いと感じる箇所を肥大化させ、欠点を見ないようにしているという。従って、自分が執着していた対象は、実際とは違うわけだから、理解が進めば進むほど、自分の思い通りでなかったことが分かり、裏切られた失望や怒りを感じてしまうのである。好ましいと思っていた対象が意のままにならぬことで、怒りの対象に変わってしまうのはこのためである。
 一方、慈しみの場合は、対象に対しての誤解が本来的に存在しない。単純に言えば、慈しみの対象は、必ずしも自分にとって好ましい存在である必要はないからである。例えば、電車の中で高齢者の方に席を譲る時、相手の高齢者が自分にとって好ましい存在か否かはほとんど関係無い。相手の辛い状態を見て、その人の「苦しい状態を少しでも和らげたい」という純粋な気持ちから生じた行動である。高齢者に自分の席を譲る際には、相手がより楽な状態になるようにと願い、自分が席を立つ。これは発送の出発点が自分ではなく対象の上にあり、自分より相手を大切にするという思いやりの気持ちとである。
 だが、実際には、我々が経験上分かっているように、見知らぬ他人よりも自分が好意を持っている対象の方が、圧倒的に慈しみの対象となりやすいことは無論である。例えば双子の母親は、二人の子供がどんなにそっくりでも、自分のおなかを痛めて生んだ子供を必ず見分けることが出来るし、それぞれの小さな苦しみも見逃さないといわれている。それは母親の子に対する深い愛情に基づくものである。
 専門的な話で恐縮だが、チベットには、菩提心を育む優れた方便として、“因果の七つの教え”〔注〕が伝えられている。この教えでは、まず初めに「一切衆生がすべて母であった」と観想し、次に、「現在の母に対する恩と同様の恩」を一切衆生に感じ、そして「報恩の気持ち」を観想してから、「慈しみ」を観想する。
 一切衆生に平等な慈悲を説く大乗仏教であるが、実際のところ、いきなり一切衆生に平等な慈しみを持つことは至難である。無始無終の輪廻の中で、一切衆生はどれ一つとってもかつて母で無かったものはないと考え、今世の母親に受けた恩と同様の恩を受けたはずであると考える。そして、輪廻の苦しみにある衆生に対し、かつて受けた恩に報いねばならないと考えるのである。このような訓練によって、一切衆生に対し、現在の母と同様の近親感を感じた後、慈しみを観想するという内容である。菩薩であっても、好意のある対象の方が慈しみを起しやすいのはいたしかたあるまい。
 先にも述べた通り、貪着は、あくまでも自分の欲望を満たすことが目的となっており、自分が作り上げたイメージが先行し、相手の状況を正確に判断することが出来ない。これに対し慈しみは、相手の状況を正確に判断していないと生じさせることは難しい。相手の苦しみや困難を己のことの如く想像することがベースになっているからである。これをもとに、「相手の苦しみを除きたい」と考える。それは自分より相手を主体に考える気持ちであり、自分より相手のことを大切にしようという気持ちである。このように見ていくと、両者は一見、よく似ているが、全く異なるものであることが理解できる。
 仏教における愛とは、貪着を減らし、慈しみを増大させていくことにあると言える。よく密教は、この貪着をそのまま肯定している教えであると言われる。確かに密教に説かれる貪着は、煩悩の貪着そのもので、貪着によく似た別のものを指すのではない。しかし、これは貪着そのものの持つ力を利用して、貪着を初めとする三毒を制圧する方便を説いているのであって、貪着を煩悩の状態そのままで肯定するという教えではない。別の機会でこの“密教と貪着”のテーマは取り上げたいと思うが、密教もまた貪着を減らし、慈しみを増大させていくことを目指すて同じ点においては同じなのだ。
 前回も述べたが、仏教は心の有り様を変えていくことで、境地を上げて行き、悟りに到ろうとする教えである。そのためには、このような自分の心の様相を正しく知ったうえで、上手に心と向き合っていくことが大切だとされている。それは仏教徒でなくとも、自分の人生を豊かなものにしていくために有効なことである。この点が注目され、欧米でも仏教に関心が高まっている。
 現代は過多な情報が氾濫し、未だかつて無いスピードで時代が進んでいる。その中、このような時代背景を受けてのことだろうか、最近、経営者と言われる立場の人物で、単なる“お願い信仰”でなく、本格的に仏教やインド思想を学び、心の安定を“ど真剣”に模索している人々と出会う回数が増えてきている。いまや仏教は、単なる信仰、即ち拝むだけの対象としてではなく、心の糧、人生の羅針盤としての役割を担う時代になって来ていることを強く感じる。


〔注〕“因果の七つの教え”は、(1)「一切衆生がすべて母」(2)恩を想う(3)報恩(4)慈しみ(5)慈悲(6)衷心(一切衆生に対する責任感)(7)発菩提心〔一切衆生を救済するために仏位を目指す〕の順で菩提心を起す次第である。




≪ 一覧へ戻る

HOME | お知らせ | 活動内容 | 法人概要 | お問い合せ | お大師様のことば | 水面の月 | 祈りの風景 | イベント情報 | ブログ「SHOJIN」 | 入会申込書(PDF)