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水面の月 水面の月

第十一回 -“怒り”と“空”-

清風学園
専務理事・校長
平岡 宏一

 ついついイライラして、周りに当たってしまうことはよくあることだが、ではこの怒りの原因は何処にあるのか?今回は“怒りの原因”について、少し考えてみたい。
 まず、すべてのものには原因があるが、最も主要な原因のことを質料因という。例えば、スーツの質料因はウールであり、バットの質料因は木である。
 では怒りの質料因は何だろうか。不愉快なことばかりいう得意先や言うことを聞いてくれない家族、つまり相手が怒りの最大の原因なのだろうか。
野球の試合中継で、チャンスに打てなかったバッターがバットを叩きつける場面をよく目にする。チャンスをものに出来なかった選手がどんなに怒りをぶつけても、叩きつけられたバットが怒ることはない。バットには怒りの質料因がないのである。
 仏伝には、あるバラモンが、説法する釈尊に絡み、罵倒し続けるという話が出てくる。罵倒され続けていた釈尊は、唐突にバラモンにこう問いかけた。「汝の家にお客が来て馳走をすることがあるか?」。虚を衝かれたバラモンは素直に「ある」と答えた。すると釈尊はさらに「ではその馳走を客が食さなければどうなるか」と尋ねた。バラモンは「それなら自分が食べるしか仕方が無い」と答える。釈尊は「今、汝が私に並べた悪口を私は頂戴しない。従ってその悪口は汝のものになるより他にない」とバラモンを諭されたという。
 煩悩を断滅した釈尊には怒りの質料因は無かったのだろう。煩悩多き我々の怒りの質料因は実は相手にではなく、我々自身の心の中にあることが分かる。怒りに駆られている時、我々は、心を自分ではコントロール出来なくなってしまう。
 時々、夫婦や親子など親しい間柄の人々がおこす殺傷事件を耳にすることがある。とても痛ましいことだが、「日頃は仲良しだったのに何故?」という話や、罪を犯した人がその後深く悔い反省している話を聴くと、事件のきっかけは積年の恨みというより、瞬間的な怒りが原因なのだと思う。仏教では、怒りはそれまで積んできた徳をすべて消滅させてしまうといわれている。煩悩に支配され、心が制御不能となった相手に対して「売られた喧嘩は買わねばならぬ」と応じるのは、自分も相手と同じく心を制御不能の状態にしているだけのことである。
 相手の怒りに乗せられて、自分も判断不能の状態に貶めてしまうのは本当に空しいことである。では湧き上がって来る怒りの気持ちに対して、どのように対処すれば良いのだろうか。有効な方法はあるのだろうか。
 かつて、ダライラマ法王と謁見した際に、法王がこう仰ったことがある。
「般若心経をあげる習慣があり、密教に対する信仰も持つ日本人は、チベットとよく似た国であるが、近年は“空”の意味を深く考えるような様子があまり感じられず、仏教が単なる習俗と化し、空の意味を考える者があったとしても、それはほとんどが学際的なアプローチであり、自分の心を耕す肥やしとはしていない。しかし本来はそうではなかったはずだ。ものに執着しすぎている時、或いは怒りにとらわれている時、“空”を思うことは、心を安定させるのに大きく寄与するはずである」と。
 “空”とは、専門的にいうと、すべてのものが此方(こちら)の側から判断してそう決めただけで、対象の側からは因果関係を離れた固定的な性質を有していないことをさす。ダライラマ法王は、般若心経に説かれるこの空を理解することが怒りへの有効な対策であると言われたのである。
“空”というと、難解に聞こえがちだが、この“空”と怒りを考える端緒となるような話を、ある時、本校のカウンセラーから聞いたのでここで紹介してみたい。
 ニューヨークの地下鉄で、彼は一組の親子と乗り合わせた。幼い子供達は大声で口々に意味不明なことを叫んでいたが、そばにいる父親はまるで聞こえていないかのように目もくれなかった。見かねたある乗客が、強い口調でその父親に注意をした。すると父親はふと我に帰ってこう答えた。
「失礼しました。今しがた病院で、この子達の母親が亡くなりました。それで子供達は錯乱状態になってしまったようです。私も茫然としておりました。」
 すると、強い口調で抗議していた乗客は態度をあらため、「私に何かできることはありますか?」と父親に言ったという。
 乗客の前で喚く子供達の姿はなにも変わっていない。しかし、カウンセラーを含めた周りの乗客の目の前にあった怒の対象としての親子の姿は、明らかに別の見え方をしだしたのである。
 親子の状態が変わったのではなく、見る側の見方、相手に対する判断が変化したのだ。此方からそう判断しただけで、対象の側に固定的な性質があるわけではないということを、この例はよく示している。
 仏教は他の宗教と違い創造主を想定しない。だから苦難に対しても、それを「神が与えた給うた試練」であるとは考えない。すべて自分の心で思ったことによって、業を積み、善きにつけ悪しきにつけ、その報いを受けると考える。いわば創造主に当たるものは己の心そのものなのである。
 聖徳太子は、十七条憲法の第二条の最後に「其れ三宝によらずんば、何を以ってか、まがれるを直さん」と仰っている。要約すれば、「仏の教えに依らねば、どうして曲がった心の状態を正すことができるだろうか」という意味であるが、心の悩みを打ち破った釈尊の教えに学んで、自分の心とどう向き合っていくかということが大切である。
 勿論、煩悩に塗(まみ)れた我々はそう簡単には救われはしない。しかし怒りの質料因は自分の心であると捉え、“空”の意味を日々の生活の中で考えるようにするならば、怒りを爆発させる回数を少しずつ着実に減らすことができるかもしれない。
 有名歌手を呼んでお寺でコンサートを開くことも、多くの人々に仏縁を持って頂くという意味において、仏教の現代化であると言えるだろう。しかし、それだけに止どまっていては仏教の本質を見失うことになる。多種多様な悩みが蔓延(はびこ)り、煩悩を掻き立てる今日、仏教の教えは社会に真の意味で必要とされており、現代人が仏教から学ぶことは沢山あるし、限りなく深い。




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