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水面の月 水面の月

第十回 随喜ずいきするということ

清風学園
専務理事・校長
平岡 宏一

 明治23年にトルコの使節団660名を乗せたが遭難し、多数の犠牲者を出すという悲惨な事件があった。この時、68名の生存者が流れ着いた和歌山県串本の漁村の人々は、自らの乏しい食を惜しみなく分け与え、昼夜を徹した看護を施したと伝えられている。明治の日本人には、貧しくとも困っている人々を放っておけないという気概があった。激しい台風に襲われた直後の、人口400人ほどの漁村にとって、68名の遭難者達に食事を供給することは決して容易なことではなかった。村人は自分達の食料をかえりみることなく、非常用に残しておいたニワトリまでエルトゥールル号提供して、必死のお世話をしたのであった。
 時は過ぎて1985年のことである。イラン・イラク戦争の開戦直前、日本政府の対応の悪さから、イランに住む日本人216名が現地に取り残されそうになるという事態が発生した。この時、即座に航空機をチャーターして在留日本人を救出した国があった。トルコである。この件に関して、当時の駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の恩返しをさせてもらっただけ」とコメントしている。百年という時間を経ても、親切にしてもらったことを忘れないトルコという国もたいしたものだが、心からの親切心や思いやりの精神は千古に輝くということも事実であろう。トルコではエルトゥールル号のエピソードは教科書にも出ている話で、トルコが親日国となるきっかけとなったといわれているが、日本でも最近、度々報道されている。
 さて、最近の日本では、日常の悲惨な事件は相変わらず多いものの、その反面、震災での警察官や消防署員の勇気ある行動など、以前はあまり報道されることのなかった無名の人々の立派な行為について、多くの報道がなされるようになってきた。
 仏教では、最も容易に徳を積む方法は、他人の行った善行を素直に喜ぶことであるとしている。これを仏教用語では“随喜ずいき”といい、随喜することによって善行の本人だけでなく周りの者も皆すべてが徳を積むことができるとされている。
 他人の善行を「下心があるのだ」とか「つまらないことだ」と言ってけなしてしまうことはよくあることだが、チベットのギュメ密教学問寺のロサン・デレ元管長によると、「そう判断する根拠は、多くの場合、自分の慢心や相手に対する嫉妬による」という。自分に対しての慢心や他人に対する嫉妬は代表的な人間の煩悩であるが、この煩悩こそが、共に謙虚に学ぶことを妨げる大きな障害となる。この障害に対する最大の対抗手段が随喜であると仏教では説いている。
 チベットで用いられる菩薩戒ぼさつかいでは、“三宝への帰依きえ”“懺悔ざんげ” に続いてこの“随喜”を唱える。言うまでもなく、菩薩とはすべての生きとし生けるものを救済するため、悟りを目指す者という意味であるが、この菩薩となる戒律を授けられる時、仏と交わす約束の初めに、随喜は登場する。これは多くの人々が幸せになっていくために、随喜の精神が絶対に必要なのだということを物語っている。
 ちなみに、随喜とは良い方向に用いれば、簡単に膨大な徳を積むことができるが、一方で、他者の不幸を喜んだりすると限りない悪業を積むと言われている。よく「他人の不幸は蜜の味」などというが、仏教的には、自分が実行しなくても急速に悪業を積むことになるので要注意である。
 話は脱線したが、他人の善き行いに対して、多くの人々がそれに関心を持っている様子をニュースで何度も報道されているのを見ると、やはり勇気が涌いてくるのは私だけではないだろう。
 随喜の精神は大乗仏教で説かれたものである。実際、そういった良い話を子供達に聞かせていくことが二十一世紀を担う彼らに相応しいことのように思う。現実から目を背けることは正しいことではない。しかし絶望的な話ばかり聞いていては、子供達は思いやりと親切心に裏打ちされた智慧を持つ者には育ってはゆかない。あるスーパー進学校の校長先生が「最近の生徒は志が低い」と嘆いておられたが、それは“志の高い話をしてこなかった我々の責任では?” と思ったことがあった。
 子供達に、希望や勇気が涌いてくるエピソードを、粘り強くたくさん聴かせていくなら、彼らは純粋な心で随喜して、「自分もそうありたい」と思うようになるのではないか。我々大人達が何も行動せず、現状を放置するなら、二十一世紀は絶望の世紀になって行くことはあっても“幸福の世紀”へとは変容していくことはない。変化の激しい困難な時代だからこそ、私たちは、随喜の精神で、心して子供達に接してゆこうではないか。




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