諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

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お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(九十五)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
東京成就院長老

福田 亮成

 自心の心の中にこそ、天堂(極楽)と地獄とがあることを知らないで、どうして心のわざわいを除こうとしないのであろうか、と。お大師さまの厳しい叱責の言葉であります。この心の機微について、『吽字義』に次のような具体的な例をあげております。”彼の無智の晝師えしの自ら衆綵しゅさい(種々な色彩)を運んで可畏夜叉かいやしゃ之形を作り、成し巳ってかえって自らこれを観て怖畏ふえを生じて、頓ちに地にたおるるが如し。衆生も亦復また是の如し。自ら諸法の本源を運んで三界を晝作して、還って自ら其の中に没して、自心熾然しねん(火がついて燃えること)にしてつぶさに諸苦を受く”とあります。
 自分の心がつくりだしたものに、自分自身が右往左往してしまうという、なんとも滑稽こっけいなありさまが鋭く指摘されている文章です。
 このようなことは、私達の日常生活の場でしばしばおこってきます、人びとは、各々に他人ひととの諸関係のなかで生きております。そして、その関係が親密であればあるほど、他人ひとと自分との境遇を比較しがちであります。この比較する、即ちくらべるという心の動きが、その人の心に喜びや苦しみとなってくるということであります。”自心の天・獄たるを知らず”という所以であります。日常生活での心の浮き・沈みは、他人との比較からおこってくることが多いのです。くらべるという心の動きは、日常的なことですが、それは優越感にもとづく喜びや、不幸感にうらうちされた苦しみがおそってくるのであります。その心の動きであるくらべるということは煩悩心のあらわれです。
 くらべるということは、喜びをもたらし、苦しみをつくってしまうものであります。

六大新報 第四四二二号 掲載

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