諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

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お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(七十三)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成



 文中の「不変の変」とは、法身大日如来が〈変〉、即ち相対的な世間の場にあらわれ出た、ということでありましょう。そうすれば、「応物の化」とは、諸仏・菩薩のたちあらわれ出たもので、万物に応同して人びとに利益をあたえてやまないということでしょう。
 また「刹塵・沙界」とは、共に数の無量・無限のことで、それが「へんし・ ちている」。そして「物に応じ・人を利す」といっております。お大師さまのお考えでは、法身大日如来と諸仏諸菩薩とは、摂するものと摂せられるもの、ということができますが、もっと大きく、諸仏諸菩薩を包み込むもの。いうならば、摂するものと、摂せられるものとを同時にかかえこむ主体としての法身大日如来、言葉をかえていうならば、四種法身説がそれでありましょう。例えば、不動明王をことさらに〈大日大聖不動明王〉というごときであります。『秘蔵記』に、一つの例を出して、大日如来と諸仏菩薩の関係を明らかにしております。それは、一つの立方体を想定して下さい。その立方体の中心に大日如来の光源をおき、その六面に種々な穴を 穿うがって、その穴から種々の形をした光線が外に射します。三角の穴が不動明王といたしますと、大日という光源が不動明王として外にあらわれ、丸い穴が阿弥陀如来といたしますと、大日という光源が阿弥陀如来として外にたちあらわれてくる、というのであります。この例えによればどうしても、大日如来と諸仏菩薩という二重構造を有する仏身論は、端的に、視覚的に一気に了解できるはずであります。文中の「物に応じ」とありますが、法身大日如来が遍満しているありさまを「物」に応ずるというところまで云ったものであるにちがいありません。



六大新報 第四三六五号 掲載



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