お大師様のことば(七十)
大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成
秋は落葉の季節であります。そして同時に紅葉の美しい時節でもあります。その陰で、桜の葉がバサバサと落ちています。それは、新しい芽が出ようとして内から突き上げる力によってはかなく散っていくのであります。それは一見冷酷な現象に見えます。紅葉が盛んですが、それとても枯れて散っていく直前の一場面にほかなりません。
窓から見える一本の木があります。新緑の美しい時をへて、やがて芽を出し、花を咲かせ、散っていく、と。木は
仏教という宗教の一番深い底に輪廻転生ということが横たわっております。現代人は輪廻転生ということを通して仏教を考えていません。では輪廻する主体とは何か、などとさかしらなことをいっておりますが、そのような人間も実に自然現象のなかに、自然そのものとして生きている現実を認めざるをえないのであります。自然のただなかに立ち尽す一本の木の営みのように、人間の死ということも、新しい生命の力によって葉が散っていき、次の生命の成長が用意されているのだとするならば、まさしくそれが輪廻転生といういことではないでしょうか。私の生命も、そんな大きな歯車の歯の一つにかみ合わさっているとするならば、その一つの歯の責任をはたすことが、生きるという一大目標でなければならないはずです。
窓から見える多くの木々たちが、別々でありつつ同じ営みをくりかえしております。私達一人一人の生きるという営みも、まったくそれと相違することがありません。それらの木々を含め、すべての生きとし生けるものたちが担う、実に大きな生命のうねりこそが輪廻転生ということでしょう。
六大新報 第四三五八号 掲載