お大師様のことば(五十八)
大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成
お大師さまの後半生の重要な事業に、高野山開創ということがあります。「山の状たらく、東西は龍の臥せるがごとくして東流の水あり、南北は虎の踞れるがごとくして棲息する(住む)に興あり」と描写される高野山は、若き修行者の時に、すでに確認されていた場所でありました。さて、お大師さまは、唐よりの帰国の途中に、「空海、大唐より還るとき、数数、漂蕩に遇いて、いささか一の少願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利済せんがために、一の禅院を建立し、法に依って修行せん」と。この誓願が高野山開創につながっていることは重要です。さらに「本誓を遂げんがために、いささか一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして法に依って修行せしめん」ともあります。
弘仁七年(八一六)六月十九日に紀伊国司に上表し、七月八日に許可されました。そして弘仁八年(八一七)八月には、弟子の実恵・真然・智泉・泰範らが派遣され準備に入り、どうやらお大師さまは、弘仁九年十一月十六日に山上の人となったことがわかります。お大師さま四十五歳の時のことでありました。
さて、この草堂は、高野山上のどこに建立されたのでしょうか。考えられるのは、現在ある金剛峯寺のある場所でしょうか。どれほどの規模のものであったのでしょうか。多くの疑問がわいてまいります。弘仁十年(八一九)三月十日に、高雄寺より「銀鈎并に土物」が転送されたことがあったようです。お大師さまの使者の葛生という人物が、高雄山から高野山にやってきたようです。そして、ついでこの使者は、大宰府に赴いております。
六大新報 第四三二七号 掲載
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