諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

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お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(五十七)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成



  この言葉の前文に、「一手いっしゅはくさず、片脚へんきゃくあゆむこと能わず」とあります。文字通り、一手では拍手ができません、片脚ではなかなか前に進むことができません。ここでは、両手・両脚が、“彼此”ということにほかなりません。
  私は、寺院住職として施餓鬼会とか、春秋彼岸会法要の折に、この言葉を紹介し、行事は一方的に寺院側だけではなりたたず、そこには檀徒の一人一人が参加されてこそ成り立つものであることを力説いたします。
  さて、この言葉は、そのようなものにとどまることなく、深く信心の世界にもおよぶものでありましょう。“彼此”とは、日常生活上の親子、兄弟、親戚。友人、仕事の仲間。会社の内の同僚どうりょうにいたるまで、さらに仏教者としては、“彼此”とは、まさしく仏と私のことであるにちがいありません。“至誠”とは、この上なく誠実なこと、まごころのことであります。相互おたがいのまごころによってこそ“感応かんのう”即ち、自分の信心が仏に通ずるということでありましょう。あるいは、仏の大慈悲心が自分の心に及ぶということでしょう。仏からの至誠はすでに私達に向けられているのですから、あとは、自分の至誠を仏に向けることであります。
  お大師さまの『即身成仏義』にあります「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」とは、実にこのことの道理を示したものでありましょう。自分のまごころをもって、他人に対し、仏とむきあうことこそが、仏教の信心の第一歩であるにちがいありません。



六大新報 第四三一九号 掲載



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