お大師様のことば(四十九)
大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
文学博士・東京成就院長老
福田 亮成
この文は、布勢海という方に宛てて提出されました高野山下賜の上表文の提出を依頼された書状のなかの一文であります。これによりますと、大唐より帰還の船中において発せられました一の少願とは、「帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利済せんがために、一の禅院を建立し、法に依って修行せん」ということでありました。お大師さまが帰国されて早や十二年(実際は十一年)の歳月が経過しております。この書簡は、弘仁七年(八一六)六月十九日のものであると確認されておりますから、お大師さまは四十二歳のことであったようです。この一の少願は、具体的に一の禅院(草堂)の建立に結びつくものであり、すでに高野の地が想定されておりました。高野の地につきましては、「貧道、少年の日、修渉の次で、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして、人迹夐に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し」とあり、お大師さまが若き修行者の時代に、既に確認されていた場所であったようであります。
始めてお大師さまが、荒野の地を望見され、その地に立たれた時の感動を思います。突然に開かれた眺望のただなかに平原が広がっています。そして中央に清冽な水が勢いよく流れています。四方に山が見渡せます。まるで、大日如来のふところに、すっかり抱かれているように感じられるではありませんか。
お大師さまが、若い頃、ここだ、と叫んだ声が聞こえるようです。真言宗にとりまして、高野山は修禅の地であり続けるべきです。
六大新報 第四三〇三号 掲載
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