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お大師様のことば(七)
大正大学名誉教授
文学博士・東京成就院住職
福田 亮成
これは、正しくはお大師さまの言葉ではなく、恵果和尚よりお大師さまになげかけられたものであります。恵果和尚との出会いは、実にこのような言葉から始まったわけです。
ここでお大師さまの中国での足どりをたどってみましょう。「空海去(い)んじ廿三年季夏の月、入唐の大使藤原朝臣(あそん)に随って同じく第一船に上り咸陽(かんよう)(唐国)に発赴す。その年八月福州に到り、着岸す。十二月下旬長安城に到り、宣陽坊の官宅に安置す。……ここにおいて城中を歴て名徳を訪うに、偶然にして青龍寺東塔院の和尚、法の諱(いみな)は恵果阿闍梨に遇い奉る。……空海、西明寺の志明、談勝法師等五六人と同じく往(ゆ)いて和尚に見(まみ)ゆ。和尚、たちまちに見て笑(えみ)を含む。喜歓(きかん)して告げていわく」、として先の言葉がつづきます。さらに、「今は相見ること大に好(よ)し、大に好し。教命(寿命)竭(つ)きなんと欲すれども付法に人なし」とあります。恵果和尚側に、寿命がつきようとしているのに、付法に人なし、という問題があり、お大師さま側に、偶然にして恵果和尚と出会をとげたわけでありますから、この両者の出会は、まことにきわどいものでありました。
“ 私(恵果和尚)は先より汝(お大師さま)が来るであろうことを知っていて、久しく待っていた ”とは、恵果和尚はお大師さまのことを充分に知っていたということになります。
この文をこのままに読んでみますと、日本僧空海の優秀なことと、その目的は密教である。ということを恵果和尚はつかんでいたことになります。
お大師さまの方も、在唐三十年の永忠和尚(ようちゅうわしょう)の止宿していた西明寺に入ったわけでありますから、当時の仏教界のニュースや、人物評を充分に把握していたにちがいありません。
六大新報 第四一九五号 掲載