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祈りの風景 祈りの風景

第二十四回 元号 ‐げんごう-

湯通堂 法姫

 昭和が終わった日のことを、私は鮮明に覚えている。テレビでは、喪服に身を包んだアナウンサーが「昭和天皇崩御」の報を伝え、それまでの病状や最期のご様子などを淡々と読み上げていた。皇居の前に集まった人々が、各々に黙祷や合掌する光景が画面に映し出され、「天皇様がお隠れになってしまわれた」と祖母が哀しげに呟いた。

 前年秋からの昭和天皇不豫ふよの報道は、日本全体に重苦しい影を落としていた。国民の誰もが、病状の快復を祈りながらも、遠からず訪れるであろう別離を予感していた。さざ波のように広がる祝賀自粛のムードの中で歳が暮れ、やがて新しい年が明けた。昭和天皇がみまかられたのは、正月の行事が一段落した1月7日の朝のことであった。天皇とともに昭和という時代が去り、その日の午後、元号は「平成」と改められた。

 平成は、昭和54年に成立した「元号法」の下で、政府によって定められた初めての元号である。政府は、その出典について、漢代の司馬遷が編纂した『史記』「五帝本紀」の「内平らかにして外成る」と、『書経』「大禹謨」篇の「地平らかに天成り」からの引用であると公表した。

 元号は、前漢武帝の治世に「建元」という年号が定められたことに始まるといわれている。以降、興亡著しい中国の歴代王朝においても踏襲され、約2000年のあいだ受け継がれたが、清朝の滅亡と共に廃された。

 時間の流れを年、月、日などの単位に区分して数える体系を「暦法」と呼び、一連の年数を特定の元年から数える方法を「紀年法」という。前者は日月など天体の運行に基づいて確立され、後者はその国家の統治者の即位を初年とすることが多い。

 東洋における紀年法は、十干十二支の組み合わせで数える干支が使われたが、六十年で一巡する為、それより長い年代を記録するには不向きであった。その点、天皇の在位や何らかの歴史的事由に基づいて制定される元号は、長い歴史を有する我が国の紀年法として最も適しており、歴史書の編纂にも有用であったといえよう。

 古代の東アジアにおける宗主国を自任した中国の皇帝は、自らが世界の中心に在り、自国のみならず近隣の諸国や周辺の諸民族をも統治し、教化すべき天命を受けた存在であるとして、冊封と朝貢による外交を展開した。朝貢国に対し、称号や印章を与えるかわりに、宗主国の文字や天文、法制度を導入させ、各々の国や民族が独自の暦や文字を創ることを時には厳しく禁じた。

 我が国は、聖徳太子が隋の煬帝に送った国書に
  日出る処の天子、日没す処の天子に書を至す、恙無きや 云云
したためたように、早い時期から、冊封体制と一線を画した独立国家としての自覚を有していた。

 日本で最初の元号は「大化」である。乙巳の変において有力豪族であった蘇我氏の力を退け、天皇を中心とする中央集権国家を築く為に、当時の最大の文明国であった唐の紀年法を導入し、人心を一新したものと考えられる。その後、元号は断続的に採用され、文武天皇 五(701)年に定められた「大宝」以降、今日まで途切れることなく続いてきた。

 大化の改新を主導した中大兄皇子は、後に我が国初の時計台を築き、時刻を定めたことでも知られる。積極的に唐の文明に学び、律令や戸籍の作成、税制の確立など、古代日本の国家的礎となる施策を打ち出す一方で、聖徳太子の志を継ぎ、アジアの政治秩序に与しない、独自の外交を保った。

 皇帝がアジアの中心に君臨し、他国の領土のみならず、天文や時間をも支配した時代に、公然と独自の時を計り、独自の文字を作り、独自の元号を定めたことは、日本という国の在り方を内外に知らしめる行いであった。

 大化以降、日本の元号は247を数える。御代替わりの他にも、地震や干ばつなどの天変地異や飢饉、疫病の流行、戦乱などが起こり世が乱れた時、諸々の災厄を除き、人心を一新する目的で、改元が行われることもあった。元号には、天皇をはじめ歴代の統治者達の平安な世への切なる願いがこめられている。

 今上天皇が自ら、ビデオメッセージという形で譲位のご意向を示されたのは、平成28年8月8日のことである。

 高齢によって「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じている」として、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」るというお気持ちを表明された。

 賛否は様々にあったものの、国民の多くは今上天皇のご心中を理解し、政府もこれに沿うかたちでの生前退位の在り方を模索し、平成は30年を限りにすると決まった。

 これは日本の歴史の中で初めての出来事であった。これまで幾度も改元が行われてきたが、それを事前に知り得たのは、ごく一握りの雲上人のみである。庶民がこれを知らされることは、歴史的に初めての経験であると言ってよい。平成のカウントダウンが始まり、「平成最後の」と枕詞が冠された様々な行事が催され、社会が、去り行く時代への哀惜を共有しながら、来たるべき新しい時代へ向かう心構えを育んでゆく過程を、私達は初めて体験したのである。

 昭和が戦争と敗戦からの復興の時代であったとするならば、平成は相継ぐ自然災害に悩まされる時代であった。

 平成3年の雲仙普賢岳火砕流、5年の北海道釧路沖地震、7年の阪神・淡路大震災、15年の十勝沖地震、16年の新潟中越地震、23年の東日本大震災とこれに伴う原発事故、26年の御嶽山噴火、28年の熊本地震、そして30年の七月豪雨や台風21号による西日本各地の被害、北海道胆振いぶり東部地震。

 わずか30年の間に、先代をはるかに上回る災害に見舞われたばかりか、その被害も想像を絶する甚大な規模のものばかりであった。

 今上天皇は、その度に、皇后と共に未だ揺れの治まらぬ土地を巡り、傷ついた人々を見舞い続けられた。国民と同じ大地に座り、弱き者の手をとり、その悲しみや苦しみに寄り添い続けようとする在り方は、象徴天皇という新しい時代の天皇の姿を示されたものである。平成という元号に込められた願いが、皮肉にも裏切られ続けた三十年の歳月、「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切」に歩み続けられた両陛下と、その歳月を共有したからこそ、国民は生前退位のご意向を自らのこととして受け入れたのではあるまいか。

 かつて、第二次世界大戦の敗戦の影響から、元号を廃することが論じられたり、又、国際社会との関係の中で、西暦に統一すべきではないかとの意見もあった。しかし、21世紀に到った今日もなお、我が国が独自の元号を保ち続けてきたのは、遠い祖先から受け継いだ歴史の矜持と、祖国の未来への確信を元号の中に見出すからかもしれない。

 今年、御世替わりの年の春、私は久々に伊勢神宮に詣でた。二十年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮は、「常若とこわか」の思想に基づく。常若とは、常に新しく清らかであることを意味する言葉である。天照大神を祭る内宮と豊受大神を祭る外宮を中心に、全ての別宮の社殿を隣接する清浄な敷地に造り替え、神座を遷す。二十年毎に、建物ばかりでなく宝物や装束の一切を新ため、神の生命は永遠に生き継がれてゆく。

 穏やかに晴れた空の下、内宮を拝した時、この常若の思想のように、この国の歴史もまた、改元によって新しい生命を生き継いでゆくのかもしれないと思った。

 新しい元号は、これまでの中国の古典からの出典だけではなく、日本の古典からの引用も考慮されているという。やがて訪れる新しい御世が、安けく清らかなものであるようにと祈りながら、その誕生の時を待ちたいと思う。






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