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第十三回 友情 -ゆうじょう-
湯通堂 法姫
幼い日の記憶の中で、母が好んで口づさんでいた歌がある。
妻をめとらば才たけて みめ
友を選ばば書を読みて
恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな
友の情けをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む
この歌は、明治三十年代の日本詩歌壇を主導し、妻昌子と共に浪漫主義文学運動を推進した与謝野鉄幹(1873-1935)の「人を恋ふる歌」の一筋である。明治28年、招かれて漢城(現ソウル)の日本語学校の教員として赴任した鉄幹が、在漢中の明治31年に作詩したといわれている。後に曲がつけられ、全国の書生や学生の間で広く愛唱されることとなった。戦前生まれの母は、おそらく旧制高等学校の学生であった兄やその友人達の影響でこの歌を聞き覚えていたのであろう。
どんな友と交わるかで、人格は向上もするし墜落もすると考えていた母は、幼い私の交友関係に殊更に気を配った。よき友は人生の宝である。生涯を通じてお互いを高め合うことができるような気高く美しい心の友を得る為には、まず自分がそういう人間にならねばならない。そして、いつかそういう友に巡り逢えたら、尊敬と信義をもって接し、如何なる時も決して友を裏切ってはならないと戒められた。
大乗仏教の根本理念である慈悲(maitri)は、友情や友人を意味するmitraから造られた抽象名詞である。ここにいう友人とは特定の誰かを指すものではなく、友情もまた不特定多数のあらゆる人々へ向けられる慈しみの気持ちを意味している。同時に仏教においては、志を同じくし共に道を求める者を友と呼ぶ。初期仏教経典である『雑阿含経』には、次のようなエピソードが説かれている。
ある時、釈尊の近持の弟子阿難は、「我らが善き友をもち、善き仲間のなかにあるということは、既にこの尊き道の半ばを成就したに等しいと思われますが、如何でしょうか」と師に問うた。釈尊は即座に「その考えは間違っている」と答え、次のように説かれた。
阿難よ。善き友をもち、善き仲間とともにあることは、この尊き道の半ばを成就し
たのではなく、この道のすべてである。なぜならば、人々は、私を善き友とすること
によって、老い病み死なねばならぬ身でありながら老病死から解き放たれる。阿難よ。
善き友をもち善き仲間のなかにあることは、この道のすべてである。
釈尊は、彼を慕って出家した弟子たちと終生を共にした。今生の生活を捨て、一切の所有物を処分して、釈尊の教えに従って修行生活を始めた人々の集まりを
生や死や老いや病いや、この世のあらゆる事象を内向的につきつめて思考してゆくのが仏教である。自らの人生におこる様々な苦しみを、他者ではなく自己の内面を見つめることによって乗り越えてゆこうとする仏教の思索は常に自らに向かう。それは孤独で果てしない心の旅路である。友とは互いの求める道の遠さと孤独を知る者であり、「善き友」とは時に
「黄金は熱い炉の中で試され、友情は逆境の中で試される」というのは古代ギリシャの劇作家メナンドロスの言葉である。幼い頃の母の言い付けの為か、子供の頃の私は、特定の誰かと特別に親しくなることはなかった。誰とでも同じ距離感を保ち、それ以上に深く交わることを避けているような子供であった。
長じて大人になり、人の世の様々な出逢いを重ねるなかで、明治の書生達が愛唱した「六分の侠気」の情熱も、「火をも踏む」覚悟も理解できるようになった頃、自分の周りには、ある時は暖かく励まし、ある時は厳しく諌め、共に泣き共に笑ってくれる大切な人々が在ることに気付いた。彼らは私が順境に在る時は遠くで見守り、逆境に立たされた時は、自らの立場を顧みることなく手を差し延べてくれた。
生まれた場所も世代も大きく異なるこの善き仲間達に、私は不思議な縁に導かれて出逢い、同じ時代を共有し、同じ空の下に生きている。その廻り合わせの有難さを思う時、善き友を得ることは道の半ばではなくすべてであるという釈尊の言葉を思い出す。
時折、よく晴れた空の下で歩みを止め、人生の来し方を振り返っては、私もまた誰かの人生の「善き友」でありたいと願う。未熟なこの身には道を説くことなど出来ないけれど、灼熱の夏には涼風となり、厳寒の冬には暖かな陽溜まりとなって、この長い旅路を共に歩んでゆけるような、「善き仲間」の一人でありたいと願う。