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祈りの風景 祈りの風景

第六回 追慕 -ついぼ-

湯通堂 法姫

 京都嵯峨野の大覚寺は美しい寺である。嵯峨野という地名は、唐の景勝地・嵯峨山に由来するといわれている。北の上嵯峨(朝原山)山麓、西の小倉山麓を背にして、東に太秦、南に大堰川を望むこの地は、古くから別荘地として平安の貴族達に愛好された。
 幼少の頃よりこの地をこよなく愛し、この地名を命名したと伝えられる嵯峨天皇の離宮を、天皇の皇女であり後に淳和天皇の皇后となった正子内親王が喜捨きしゃして寺とし、その皇子である恒寂法親王こうじゃくほうしんのうを開山としたのが大覚寺の縁起である。正式には「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と称され、京都に数ある門跡寺院の中でも、とりわけその格式の高さを誇る寺である。


 嵯峨天皇は、桓武天皇の第二皇子として生れ、病弱だった兄帝平城天皇より譲位されて、大同元(806)年、第五二代天皇として即位した。
 即位後まもなく、藤原仲成、薬子兄妹が平城上皇の重祚ちょうそを企てた「薬子の変」を平定し、政務の迅速化を図る為に蔵人頭くろうどのとうを任じ、治安維持の為に検非違使けびいしを設置するなど、新たな施策を打ち出した。また『弘仁格』『弘仁式』を編纂して律令制の整備を進め、法治国家としてのいしずえを築いた。
 嵯峨天皇の治世は、軍事と造作に明け暮れながらも「当年のついえといえども後世のたより」と評された父帝桓武天皇の業績の上に、当時、世界帝国であった唐の思想や文物を積極的に導入して武から文への政治的転換を図り、国家の文化水準の向上と政治的安定を指向するものであった。また政治の権力が藤原氏に独占されることを避ける為、他の氏族や有能な文人を広く登用し、学寮の設置を奨励するなど有為な人材の育成にも心を傾けた。
 好んで詩宴を催し、勅撰漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』を編ませるなど、唐風文化に造詣の深かった天皇は、入唐経験を持つ者との交流が多かったと伝えられている。
 とりわけ真言宗の開祖弘法大師空海との親交は、当初、密教という最新の仏教文化を請来し、唐の皇帝からも能書家と認められた帰朝僧への天皇の強い関心によって始まったものの、やがて世俗の地位を離れて、精神的な師弟の関係へと昇華したと思われる。数多くの遺された詩文の中に、高徳の師に対する嵯峨天皇の思慕と若く英邁えいまいな天皇への空海の敬愛を読み取ることができる。


 大きな政争や争乱も無く、比較的安定していたといわれる嵯峨朝においても、相継ぐ旱魃(かんばつや水害による飢饉ききんに悩まされ、疫病の流行で多くの民が命を落とした。
 当時の為政者が統治の範としたのは儒教の徳治主義であった。徳治主義とは、天に選ばれた君主がその高い道徳理念をもって万民を治めるべきであるとする孔子の帝王学である。
 帝王とは、国を安んじ民を正しい方向に導く「天命」を享けた存在である。天を敬い、自らを戒め、行いを厳しく律し、民を慈しむことが帝王の務めであり、その帝王の「明徳」によって国は安泰となり、風雨は時にしたがい、春秋は正しく移ろう。
 帝王がその徳を失った時、或いは不徳の者が帝位に就けば、天変地異や飢饉がおこり、疫病が流行し、人心が乱れると考えられていた。
 皇位継承に伴う権力抗争や争乱は、いわば人間の欲から生じた災いである。一方で地震や旱魃かんばつ、疫病によってもたらされる不幸は天が与えた災いであり、人の力の遠く及ばぬものである。ゆえに天皇は「朕の不徳の致すところ」と天にゆるしを乞い、高僧に雨乞いや疫病退散の祈祷を命じた。天長元(824)年二月に勅命を受けた空海が神泉苑において修した祈雨の修法とその効験は、正史である『日本後記』にも明記されている。
 天皇は、国の為政者であると同時に民族の祭祀の長という性格も併せ持つ。国造りの神の子孫として、天神地祇に国土の安泰を祈り、仏法によって国家を鎮護し、民と喜び悲しみを共にする。
 今春の震災において今上天皇が国民に向けて出されたビデオメッセージは、被災者への同悲と復興への祈りに満ちたみことのりであり、歴代の天皇に継承されてきた祈りの君主の在り方を踏襲するものであろう。


 嵯峨天皇は、即位直後の弘仁二(811)年、空海に命じて離宮内に五大明王を祀る五覚院を建立した。これが後の大覚寺本堂五大堂の前身といわれている。五大明王とは大日如来を中心とする五智如来の変化身へんげしんといわれる不動明王ふどうみょうおう大威徳明王だいいとくみょうおう軍荼利明王ぐんだりみょうおう降三世明王ごうざんぜみょうおう金剛夜叉明王こんごうやしゃみょうおうの五尊である。この忿怒の相も猛々しき多面多臂の仏たちは、それぞれに衆生済度の様々な武器を持ち、その背負った火炎は、衆生に降りかかる一切の災厄を焼尽するといわれる。
 弘仁九(818)年の春、国内に疫病が蔓延し、多くの死者が洛中洛外の路傍に溢れた時、空海は五覚院で五大明王に祈願し、天皇に『般若心経』を講義してその功徳を説き、天皇自ら、一字三礼を以ってこれを写経するよう推めた。『般若心経秘鍵』には、
   帝皇、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌そしょうに握って般若心経一巻を書写し奉りたまふ。
と記されている。霊験は瞬く間に現れ、「未だ結願のことばを吐かざる」うちに、瀕死の者が蘇生し、暗黒に閉ざされていた空に明るい日の光がさし、疫病は退散したという。この写経は、「勅封般若心経」として、今なを大覚寺の奥深く、心経殿に安置されている。
 天災であれ人災であれ、子が親より先に死ぬこと、いつの世もこれに勝る不条理はない。生れた子が健やかに育ち、子供が大人となり、大人がやがて年老いて穏やかな死を迎えること。そうした自然の営みの中にこそ、神仏の加護はあるのだ。
 人智の遠く及ばぬ天災に苦しむ民を想い、自らの非力を哀しみ、天皇は、空海が請来した密教の仏に「鎮護国家ちんごこっか」を祈り、自らも『般若心経』を書写することによって「万民快楽ばんみんけらく」の願いをこめたのではあるまいか。大覚寺は、平安の世の偉大な天皇と師僧を追慕し、その祈りを受け継ぐ寺である。


 夏の終わりの八月二十日、大覚寺では施餓鬼供養せがきくよう万燈万華まんどうまんげ法会ほうえが執り行われる。蓮の花が咲き残る大沢の池に無数の灯籠が浮かべられ、夕闇の中をゆっくりと漂うともしびの花となる。五大堂での厳かな法楽の後、池のほとりしつらえられた施餓鬼棚せがきだなの前で僧侶たちが読経する中、池の中央に浮かぶ供養のいかだに火が点じられると、漆黒の闇の中に赤い炎の柱が燃え立ち、あたかも天上から投じられる花弁のように、水面に無尽の火の粉が降り注ぐ。京都の人々には「嵯峨の送り火」の名で親しまれる「宵弘法」の風景である。
 密教では、火は人間の煩悩を焼き尽くし、災厄を払う力を持ち、水は人の世の穢れを洗い流す清浄な力を持つと考えられている。宵弘法は、この聖なる火と水の力とを以って、死者の魂を鎮め、菩提を祈る法会である。
 今春、日本は国難というべき未曾有の天災に遭い、比類無き多くの生命をうしなった。不意に、あまりにも理不尽に今生を終えねばならなかった幾千の人々の非業。未だ地中に埋もれ、海中に沈み、愛する者のもとに戻ることの叶わぬ万骨の無念。今年の経木塔婆には、東北の震災にたおれた人々の名が記されたものも多くあったと聞く。
 願わくは、遠い北の地に彷徨さまよう幾多の魂が、浄らかな彼の岸へと導かれますように。愛別離苦あいべつりくの哀しみと悔恨を背負って生き続けねばならぬ者達に、いつの日か安穏がもたらされますように。
 嵯峨野のしじまの中に立ち、送り火に掌を合わせながら、今日が無事に終わり恙無つつがなく明日に続くことの尊さと、今ここに生きて在ることの有難さを思わずにはいられない夜である。



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