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祈りの風景 祈りの風景

第一回 人生 -じんせい-

湯通堂 法姫

 彼岸が過ぎ、秋の気配が深まり始める頃、いつも思い描く風景がある。黄金色の稲穂の波の向こうに連なる故郷の山並。西の空を幾通りもの赤に染めて沈みゆく夕陽。父が亡くなったのは、そんな季節であった。

 父が最期の数日を過ごした病室の窓から、美しい秋の夕暮れの風景を望むことができた。刻々と変化してゆく空の色と、織りなされる山々の錦繍に感嘆し、今までに見せたことのない穏やかな表情で、父はこう呟いたという。
 「この世は美しいものだなあ。今生の最期に、こんなに美しい夕陽を見られて、本当に幸せ者だ。」
 そのことを私は母から伝え聞いた。父の言葉を聞かされた時、私は『マハーパリニルヴァーナ経』の一節を思い出した。『ブッダ最後の旅』とも訳されるこの経典には、齢八十に達した釈尊が、故郷へ向かう最後の旅路の中で、病の苦しみと闘いながら、弟子達に遺すべき教えを説き、やがて涅槃に赴いてゆく物語が描かれる。旅の途上のヴェーサリー村で、死を覚悟した釈尊は近侍の弟子アーナンダにこう語りかける。
 「アーナンダよ。今生は美しい。人生は甘美なものだ。」

 インドの王族階級であるシャキャ族の王子として生れた釈尊が、生老病死という生命の根源的命題を前にして深く悩み、その答えを求めて出家する経緯を伝える「四門出遊」のエピソードは広く知られるところである。
 生命ある者は須らく、老い、病み、死んでゆくという宿命を背負う。生れてきたがゆえに負うこの苦しみからの解脱こそが、釈尊の求道の出発点であり、仏教の起源でもあった。
 先述の四つの苦しみを負って生れてきた我々は、生きてゆく過程で、さらに四つの苦しみに出会う。それは愛する者と別れる苦しみ(愛別離苦)であり、憎しみ合う者同士が会わねばならぬ苦しみ(怨憎会苦)であり、求めるものが得られぬ苦しみ(求不得苦)であり、肉体が成熟しているがゆえの苦しみ(五蘊盛苦)である。
 こうした苦しみや死への恐怖に向き合った時、人はそのことの意味を求める。何故に自分は苦しまねばならないのか? 何故に死ぬのか? 何故に生れてきたのか? 人生とはその問いに対する答えを求めつづける旅路なのかもしれない。

 初めて死を身近に意識したのは小学校四年生くらいの頃であったろう。同級生の少女が病気で亡くなった時であった。あれから三十年近くが過ぎ、不惑と呼ばれる年齢に近づくまで生きてしまったが、大きな困難や悲しみに遭遇して立ち尽くした時、ふと彼女のことを思い出したことがある。
 十歳で亡くなった少女は、その後の三十年の人生を知ることも、味わうこともできなかった。仕事の挫折や、恋愛の苦悩や、別離の悲しみや、出逢いの悦びや、そういう様々な人生の喜怒哀楽を知らぬままに人生を終えねばならぬことを、決して望んではいなかったはずだ。
 そのことに思い到った時、老いも病も、いつか訪れる死さえも、生きていることの証なのだと気付いた。愛することも憎まれることも、求め得られぬことも、今生に人として生れ、生きていればこそ味わえる果実なのだ。ならばその全てを有難く受け容れて、味わい尽くそうと思った。

 父が生前、『マハーパリニルヴァーナ経』を読んだ形跡はない。しかし、二月十五日の涅槃会の日に生れた父は、一介の仏教者として、釈尊を敬い、釈尊の人生を範として生き、死んだのではないかと思う。
 大正・昭和・平成という日本の激動期を生きた父の人生は、今日の私など遠く及ばぬ波乱に富んだものであったろう。十代で海外に渡り、様々な仕事に従事し、四十代で出家した。戦争の只中に青春を過ごした世代の男達に共通の、死んでいった者へのうしろめたさと生き残ってしまった者の使命感とを背負い続けた人生であった。父の初老の娘である私は、その後半生のストイックなまでの生き方の根底に、深い虚無と哀しみがあったことを感じながら育った。
 人生は苦であると説かれた釈尊が、その最後の時に、今生は美しく、人生は甘美なものであると語られたように、父もまた、苦悩多かった人生の果てに、今生はなを去り難く、人生は愛しいものであるという思いに到ったのではあるまいか。それは娘である私のセンチメンタルなのかもしれないけれど。

 いつか私が死を迎える時、目にするのはどんな風景だろうか? 心から、今生は美しく人生は甘美であったと思えるだろうか? 父のように魂の平安を得られるだろうか?
 人生の旅路の途上で、あの美しい秋の夕暮れに出会う時、釈尊の言葉とともに、人としての生命を享け、生きることを許された幸せを思うのである。



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