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水面の月 水面の月

第十四回 志と教育

清風学園
専務理事・校長
平岡 宏一

 京都大学教授の山中伸弥博士がノーベル医学生理学賞を受賞したという知らせは、暗い世相の日本にとって、晴天の太陽のような明るいニュースであった。山中教授が作製に成功したiPS細胞とは、普通の身体の細胞に4つの遺伝子を入れることで、受精卵に近い状態に戻されたものである。細胞を初期化することで、体を構成する様々な種類の細胞に変化し、あらゆる状態に対応させることが出来るという、まさに万能の人口細胞である。
 よく知られていることだが、山中教授は、元々ラグビーをやっていたスポーツマンであった。スポーツで怪我をした人たちの役に立ちたいと考えて研修医になるが、“ジャマナカ”と渾名されるほど腕が悪く、二年で挫折する。これをきっかけに基礎研究に方向転換をするのである。
 このエピソードを聞いた時に、私は釈尊の最晩年の説法を思い出した。釈尊は、涅槃にお入りになる直前に「法灯明。自灯明」とお説きになり、涅槃に赴く最後に、「諸行は無常なり。放逸することなく精進せよ。」とおっしゃったといわれている。この言葉を現代風に訳すならば、「状況は変化し、移ろい行く。(仏の)教えを拠り所とし、自分を拠り所として、諦める事無く、怠る事無く努力しなさい」いう意味になるのではないだろうか。山中教授のたどってこられた道は、正にそれを具体的に実践された好例と思われた。
 私は、以前から、この釈尊の言葉と山中教授のエピソードを題材として、学校の朝礼で、生徒達に、「人生何が幸いするか分からない。今、上手く行かないからと言って簡単に人生を投げ出したり、自分に見切りをつけてはいけない。」と話してきた。しかし今回、山中教授の受賞に際してのインタビューを聞いて、私の理解がまだまだ不十分であったことに気づいた。
 山中教授は取材の記者に対し「受賞は喜ばしいことですが、あくまでも通過点に過ぎません。倒れてしまう位の責任感を感じています。それは難病に苦しむ家族の方々に実用化して届ける責任です。それを果たして、死後、医者の道を勧めてくれた父に報告したい。」と答えておられた。
 山中教授の受賞の報に、難病に苦しむ人々が、おそらくは普段は見せることが無い心からの笑顔で喜んでいる様子が何度も映像で流されていた。多くの人々がiPS細胞が実用化されることを切望しているのである。その様子を見て「希望の中に幸福を見出す」とはこのことだと思った。
 一方であるテレビ局のキャスターが、山中教授と同じ学問を専攻する研究医へのインタビューで、彼に研修医の経験があるか否か尋ね、最初から基礎研究を専攻していて研修医の経験がないと知ると、「あなたは賢明でしたね」と言って笑いを取っていたが、その短絡さには違和感を感じた。
 なぜなら、山中教授は、遠回りをして別の道で成功したのではない。最初から患者の苦しみと向き合う医師を目指し、この最初の志を今も変わることなく持ち続け、その本懐を遂げるべく地道に努力されているからである。あくまでも医師として、患者達の苦しみを取り除くことを自分の責務であるとする志は最初から全くブレてはいないのである。

 先日、第一回の道徳教育推進研究全国大会に参加させて頂いた。この大会には全国から多くの先生方が参加していたが、研究発表や質疑を聴いていて愕然とさせられることがあった。それは、たいへんモチベーションが高い教師達が全国から集まっているにもかかわらず、社会貢献の重要性を生徒に教えることに躊躇がある人が多いように感じれたからである。
 本校のOBでも社会で活躍している人と話をすれば、社会貢献、つまり社会に役立つということの重要性を理解していない者は一人も居ない。かく言う私も経営者の端くれとして、実際、社会に貢献することの重要性は身に沁みて理解しているつもりである。しかし現場の先生方には、戦前の教育のトラウマのせいか、社会に貢献することの意義を生徒に教えることに確信が無いのである。先生が確信の無いことを、どうして生徒に教えることが出来るだろうか。
 昨今、“志学”等の重要性が喧伝されているにも関わらず実体を伴ってこないのは、システムの問題ではなく、教師の側、教える側の問題なのだと感じた大会であった。

 山中教授は、スウェーデンで開催されたノーベル賞授賞式に母上を同伴されたが、母上の腕には亡くなられた父上の腕時計がはめられていたという。教授は、「最後まで母が受賞式に出られたことが何よりも嬉しい」と語り、「父の形見の腕時計を母がつけてくれるので、父も今日は一緒に喜んでくれると思う」とおっしゃっていた。
 テレビでこの光景を観ていた私は、中国の『孝経』の一節を思い出した。
 身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは孝の終わりなり
 意訳するなら、父母から頂戴した身体を自分で傷つけたりしないことが親孝行の初めであり、自分の本懐を遂げて後世に残る業績を上げ、「あんな立派な人のご両親はどんな方なのだろうか」と言われるようになれば、最高の親孝行だという意味である。授賞式での山中教授の振る舞いは、まさにこの『孝経』の一節に相応しいものであった。

 「宗教無き教育は、ただの悧巧な悪魔を造る」と言ったのは、イギリスのウェリントン卿である。ここでいう宗教教育とは、特定の信仰を強要するのではなく、宗教的情操、即ち利他の精神や思いやりの心を育成する教育を指す。欧米のエリートは、学生であっても社会貢献への熱い情熱を持っているが、これは歴史的な宗教教育によって陶冶されたものだ。
 日本の最大の産業は人材造りである。その人材の背骨となる「社会に役立つ人になろう」という気概を持たせる教育は、絶対に必要なことである。知育と宗教教育は両立させるべきものであり、両立し得ると私は考えている。日本は、偏差値の知育偏重だけでなく、青少年の精神面での発達に必要な宗教教育を本気で考えなくてはいけない時期に来ている。
 山中博士の受賞は、今日の日本人にとって、教育に必要なものが何であるかを考えさせてくれる、大変重要な出来事であったと思うのである。




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