諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

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お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(八十四)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
東京成就院長老


福田 亮成



 真冬の早朝の鐘の声は、一層心に響くものであります。小僧時代に、いまだ薄暗い境内に竹ぼうきをもって聞いた鐘の声を思い出します。夜の闇が薄れ朝の光がようやくやってくるその間は、脳のはたらきが活性化し、種々なこと、信心のことどもを考えたものでありました。
 都会では、早朝の鐘の声に苦情がよせられ、鐘を打つことができません。ですから、立派な鐘楼堂をもっている寺院でも普段はまったく打つことがなく、歳末の除夜の鐘も遠慮しつつ打つありさまです。遠来の鐘といわれますが、確かに遠くから聞こえる鐘の声は、如来の説法のように聞こえますね。
 上掲の文は、鐘を鋳造するための寄進を願うものであります。「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の智識の文」には、
しかるに今、金剛峰寺は堂舎幽寂どうしゃいうせきにして尊容(諸佛の像)堂に満ち、禅客ぜんかく(修行者)房にあふれども、 鴻鐘こうしょう(大鐘)未だ造らず。今思わく、四恩の 奉為おんために七尺の銅鐘を 鋳造いつくらんとす、然りと雖も道人(出家者と在家者) 清乏せいぼうにして こころざし有って力無し  とあります。さらに、
生生に如来の 梵響ぼんきょう(如来の説法)を き、世世に衆生の 苦声くしょうを脱せん  と、はたしてお大師さまは高野山上に七尺の銅鐘の声を響かせることができたのでしょうか。残念ながら現在の高野山の早朝の鐘の声を聞いたことがありませんが、想像しただけでも心がはずみます。
 鐘の声を騒音としか受け取ることのできない現代人をなさけなく思います。遠来の鐘の声は、如来の説法なんです。



六大新報 第四三九三号 掲載



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