お大師様のことば(四十七)
大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
文学博士・東京成就院長老
福田 亮成
お大師さまが、漂着された
赤岸鎮から急ぎに急いで長安城に入ったのが、延暦二十三年(八〇四)十二月二十三日のことでありました。正月元旦には大使一行は含元殿におきまして朝賀の儀があり、その時の皇帝は徳宗で、二日には体調をくずされ、十三日には崩御される事態となります。このような中で、遣唐大使葛野麿一行は二月十日には、長安城を辞することになりました。そのことにつき、『御請来目録』には「廿四年仲春十一日、大使らながえを本朝に旋らす。ただ空海(※)のみ孑然として勅に准じて西明寺の永忠和尚の故院に留住す」とあります。文中の“孑然”とは孤独のさまで、孑とはひとりのことであります。“故院”の故とはふるい、いにしえの意味があり、文の流れでは永忠和尚がもと住んでおられた西明寺の一室ということになりましょう。永忠和尚は在唐三十年の長きにわたった方とされておりますが、はたして永忠和尚が以前に住んでおられた室に、ということなのか、永忠和尚が大使の帰国と共に室を出て入れかわりに入居されることになったのか、永忠和尚の帰国が不明ですから、このような疑問がわいてきます。永忠和尚が以前に帰国されていたとすれば、入唐以前のお大師さまとの接点が考えられますし、入れかわりの出会いであったとしても、いち早く長安仏教の実情を聞く事が出来たに違いありません。帰国後のお大師さまと永忠和尚との交流が認められる事から云える事であります。よって、お大師さまと恵果和尚との劇的な出会いも既に用意されていたのかもしれません。
(※)原典は旧字体でしたが、パソコン上は当用漢字にあらためております。
六大新報 第四二九八号 掲載
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